肥後古流白水会

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細川忠興(三斎)画像
寛文10年(1670)乾英宗単賛
絹本著色・掛幅装 縦107.5 横51.5
財団法人永青文庫所蔵
肥後古流について

《細川三齋公》
熊本の茶の湯を語るにあたって、話の中心は細川家二代細川忠興(三斎)公になります。三齋公は利休七哲と称された利休直弟子の武将の中でも筆頭格とされており、利休への敬愛の念はただならぬものがありました。利休が秀吉から蟄居を命じられ堺に戻るとき、古田織部と二人で淀の船着き場で見送った話は有名です。我が身の危険を顧みない三斎公の行いは利休をいたく感激させ、細川家家老の松井佐渡守康之に宛てた見送りを感謝する天正19年2月14日付の書状が松井文庫に残っております。「淀まで羽与様、古織様お送り候で、舟本にて見つけ申し、驚き存じ候。忝しの由、頼み存じ候」とあります。利休の切腹は2月28日のことですので、これが現存する利休最後の書状と言われています。また、利休は自刃に臨み自ら削った茶杓を「羽与様」と書きつけた筒とともに「茶杓は是にて候と忠興公へ申して給わり候へ」と形見として送っています。「羽与様」とは、当時の三斎公の名乗り「羽柴与一郎」にちなんだものです。これらのエピソードから、利休と三斎公の間の強い信頼関係をうかがうことができます。

《肥後古流の成立》
三斎公は元和6年(1620)に隠居され中津城に移り、翌元和7年正月に家督を忠利公に譲られました。忠利公も三斎公同様、利休の茶風を好み、寛永2年(1625)に「古き茶を能くする者」として、古市宗庵を茶頭として召し抱えました。宗庵の茶の師匠は円乗坊宗円という人物です。円乗坊は利休の直弟子の一人で本能寺に出家した僧侶でしたが、茶の湯の腕が弟子の中でも抜群であったため、利休はわざわざ還俗させて極真台子などの奥義を伝授すると共に、自分の娘と結婚させております。円乗坊は宗庵の茶人としての資質を高く評価し、利休と同様に奥義一切を伝授、自分の娘の婿としました。従って、宗庵は利休の孫娘婿であり、利休茶の湯の正当な後継者ということができます。細川家に召し抱えられた宗庵は、利休の茶風に忠実な「肥後古流」を起こすとともに、高弟の萱野隠斎、小堀長斎に奥義を相伝し、古市、萱野、小堀の三家が細川藩の茶頭をつとめることになりました。

《明治以降の肥後古流》
幕藩体制が崩壊した明治以降も三家協力して肥後古流の伝承に努めてきましたが、古市家は十世宗安に跡継ぎがなかったため、高弟の武田家が引き継ぎ、肥後古流的的社として活動されています。萱野家はもともと古田織部にゆかりの家だったのですが、大坂の陣で織部が改易されたため萱野姓を名乗っておられました。明治になって古田姓に復されましたが、現在は宗家としての活動は中止されており、門弟が松風会を組織し茶会などには参加されています。小堀家は細川家八代重賢公に拝領した扁額『白水』にちなみ、「肥後古流白水会」として肥後古流の普及に勤め、仰松軒での三斎公への献茶式、出水神社春秋例大祭での献茶式などをはじめとした活動を行っています。

《肥後古流の特徴》
肥後古流は利休直伝の作法を変えることなく現代に伝えていることが最大の特徴であります。三斎公は利休の美意識、作法は完成されたものでありこれ以上手を加えることはないとの考えに基づき、細川家の茶の湯においては利休の作法を変えることを禁じました。一般的には、茶の湯の価値観は他人とは違う創意工夫が大事というものでありますが、やみくもに変えれば良いというものではありません。より良いものへと改善するためへの変革であることが求められます。三斎公にとって利休の茶の湯の精神、作法は完成されたものであって、これに手を加えることは、完璧なものを“改悪”することになるとの信念に基づき、当時の茶人の常識に背を向け、「利休の作法を変えてはならぬ」と命じられたのです。
肥後古流の所作には武家の茶の湯の作法が色濃く残っております。たとえば古流では袱紗を右の腰に下げます。右手で使うには左腰に下げるほうが扱いやすいのですが、武士にとって左腰は刀を収める場所ですので、袱紗は下げない習いとなっています。また座礼の際、畳に三つ指あるいは掌をつけるのではなくこぶしを握って行う、座ったままで体の向きを反転させる、湯返しの後の柄杓を切る所作などが、他流には見られない特徴となっています。
利休以降、茶の湯は様々な形で伝承され、発展していきました。格式を重んじる茶風が武家を中心に好まれる一方、力をつけてきた町人の間にも茶の湯が流行していきます。特に町人文化として盛んになっていく流派においては、各家元が時代の好みや流行り廃りなどを作法や道具の見立て等に取り入れ、華やかで雅な茶風が広がっていきました。一方、肥後古流においては「利休の作法を変えてはならぬ」という君命に従い、一切の変革を拒み利休の点前を伝承してまいりました。小堀家十一代泉順は写真集「熊本のかたち」の中で肥後古流について、「茶祖を同じとする他の流派では、歴代宗匠が時代に即応して相違工夫を加えてきたが、古流では変革は“神仏の罰を蒙っても仕方がない事”として、ひたすら原形伝承に努めてきた。これを“かたくな”という人もあろうが、古流とはそういうものである。」と述べております。
「利休の作法を守るべし」と言う三斎公の命は、およそ400年の時を経た現代においても、利休オリジナルの茶の湯を伝えるという希少性を肥後古流の点前に与えたのです。